第4章
樋口浅子は無力に床に座り込んでいた。全身が痛みに包まれ、動くことさえできない。
スマホから通知音が鳴り、彼女は痛みを堪えながら画面を開いた。「808」からのメッセージだった。
「大丈夫?今向かってる」
彼女は痛みを必死に耐えながら返信した。「なんとか。今ギャラリーにいるの?」
「うん、入口にいる」
樋口浅子が顔を上げると、黒い高級車が入口に停まっていた。運転席から身長180センチほどの長身の男が降りてきた。黒い服に黒いマスク姿で、まるでファンから身を隠す人気スターのようだった。
808がギャラリーに入ってくると、樋口浅子は彼が薬を持っていないことに気づいた。
彼女の疑問の視線に気づいたのか、808は小さく咳払いをした。
「どこを怪我したのかわからなかったから、薬は買わなかった。直接病院で診てもらった方がいいと思って」
低く渋い声だったが、樋口浅子はその言葉に優しさを感じた。
「あの人もあなたみたいに優しかったらいいのに...」
樋口浅子はぼんやりとつぶやいた。
「何?」
声が小さくて相澤裕樹には聞き取れなかった。樋口浅子は首を振って話題をそらした。
「なんでもない。立てないから、病院に行くのも難しいなって思って」
相澤裕樹はようやく樋口浅子の額に、痛みで浮かんだ細かい汗を見つけた。
彼は唇を引き締め、無言で屈み込むと、樋口浅子をさっと抱き上げた。
「あっ!」
「どうした、どこか痛いのか?」彼の声は低くかすれていたが、心配の色が滲んでいた。
見知らぬ人との突然の接触に樋口浅子の顔が赤くなり、言葉につまりながら答えた。「い、いえ、ただ驚いただけ...」
温かい息遣いが身を包み、樋口浅子はどこか懐かしさを覚えた。
彼女は恐る恐る顔を上げて男の顔立ちを見つめ、眉目が相澤裕樹にそっくりだと気づいた。
ただ、マスクの下の表情はわからない。
相澤裕樹は彼女の熱い視線に居心地の悪さを感じたが、今は808という身分だから気にする必要はないと思い、視線を返すと樋口浅子の瞳と真正面から見つめ合った。
「どうした?俺に惚れたか?」
低い声で厚かましいことを言ったが、相澤裕樹はマスクをしているという安心感から、ホストのような振る舞いも平気だった。
心の中では樋口浅子を軽蔑していた。
この女、本当に軽いな。どんな男でも誘惑しようとするのか。
しかし樋口浅子は彼の予想に反して否定しなかった。
「ちょっとね。あなた、彼にそっくりだから」
「誰に?」相澤裕樹の心臓が一拍飛んだが、樋口浅子はそれ以上説明しなかった。
「もう少し我慢して、すぐ着くから」
相澤裕樹は樋口浅子を慎重に車に乗せ、エンジンをかけた。
車はゆっくりとギャラリーを離れ、樋口浅子は窓の外の景色を眺めながら、様々な思いに浸っていた。
「ありがとう。まだ名前も聞いてなかったわね」彼女は小さな声で言った。
「礼には及ばないよ。どうせ金払うんだろ」808は淡々と言った。
「名前なんて、単なる取引の関係に必要ないさ」
樋口浅子は少し黙った後、自分でも信じられない言葉を口にした。
「あなたたちの仕事、料金はどうなってるの?三ヶ月囲いたいんだけど」
車が急停車し、相澤裕樹は冷ややかに笑った。
「俺を囲うって?」
樋口浅子は急ブレーキにまず驚いたが、顔を上げると病院に着いていることに気づいた。
808の曖昧な返答を聞いて、彼女は親切にも付け加えた。
「他の『仕事』があるなら、追加料金を払うわ!」
「いくら追加する?俺の値段は安くないぞ」
樋口浅子は全く気にしていなかった。今は60億円以上を持っている。808の値段がどれほど高くても問題ないはずだ。
「大丈夫よ、あなたが言い値でいいわ。三ヶ月でいくら?」
相澤裕樹は興味深そうに指を一本立てた。
「1億円?いいわよ、口座番号教えて、振り込むから」
相澤裕樹はゆっくりと首を振った。
「違う、10億円だ」
彼は樋口浅子が今いくら持っているか知っていた。
樋口浅子は大いに驚いた。今のホストはそんなに高いのか?
樋口浅子は誰かを囲ったことがなく、相場がどうなっているのか分からなかった。しかし808の乗っている高級車と彼の立ち振る舞いを思い出すと、理解できる気もした。
「それも...いいわ!10億円ね?今すぐ振り込むわ」
相澤裕樹は眉を上げた。この女、本当に惜しみなく金を使うんだな。
ただ...彼は考えを変えた。
樋口浅子がスマホを取り出した時、808は手振りで彼女に待つよう合図した。
「お嬢さん、俺が言いたいのは1ヶ月10億円ということだ。三ヶ月俺を囲うなら、30億円必要だ」
「30億円?」
樋口浅子は息を飲んだ。
すごい、この仕事そんなに稼げるのか?
樋口浅子がやっと湧いてきた勇気は、この巨額の数字で一気に消え去った。
彼女は助手席に座ったまましばらく迷い、808の黒いマスクを見つめた。
「あの、マスクを取って顔を見せてもらえる?お金を払うなら、少なくとも素顔を見せてもらわないと」
「もっともだ」
808はその言葉に同意し、人差し指でマスクを引き下ろした。彫刻のように整った顔が現れた。
樋口浅子の目に失望の色が浮かんだ。808はとても端正な顔立ちだったが、あの眉目以外は相澤裕樹に似ているところはなかった。
「何に失望してる?」
彼女の感情があまりにも明らかで、相澤裕樹は不思議に思って尋ねた。
「私が思ったほど彼に似てないわ。もっと彼に似ていたら、本当にこの60億円を使ったかもしれない」
「彼?誰だ?」相澤裕樹は目を細めた。この人皮マスクのどこが西原貴志に似ているというのか?
「私の想い人よ」
樋口浅子は簡潔に答え、シートベルトを外そうとしたが、怪我に触れて「痛っ」と声を漏らした。
相澤裕樹は心の疑問を押し殺し、「ここで待ってろ、受付してくる」と言って車を降りた。
彼が去っていく後ろ姿が相澤裕樹とそっくりで、樋口浅子はまたぼんやりとした。
彼女と相澤裕樹はすでに離婚している。相澤裕樹の性格からして、相澤おばあさんの長寿祝い以外では二度と会うことはないだろう。
そして彼女自身も残り三ヶ月しかない。手元の60億円はそのままでも使い切れない。
ただ、お金がまだ温かいうちになくなるなんて...
いいわ!最後に思い切りよく行こう。
それに808は優しくて、様々な苦しみを理解してくれる。
そして相澤裕樹が受付を済ませて戻ってくると、樋口浅子がキャッシュカードを彼に差し出しているのを見た。
「これは?」
「三ヶ月の囲い料よ。追加の3000万円で、いい場所のマンションを借りて。残りのお金は、これから一緒に暮らす生活費にして」
「手持ちの現金は全部このカードに入ってるから、思い切ってカードごと渡すわ。暗証番号は950815」
相澤裕樹は一瞬固まった。これは彼の誕生日だ。彼女が言う想い人は自分なのか?
しかしすぐに我に返り、顔に嫌悪の色が走った。
本当に深い愛を演じるのが上手いな。もし本当に愛していたなら、四年前に彼の子供を堕ろすほど冷酷にはなれなかっただろう。
三年前、彼が死の淵にいた時に、あんな冷たい言葉を言うはずがない。
憎しみが心の中で炎のように燃え上がったが、相澤裕樹は浅く微笑んだ。
彼はカードを受け取り、樋口浅子をお姫様抱っこした。
「この仕事、引き受けた」























































